吹奏楽のはなしの続き

 前の記事(宗教化する吹奏楽部 - 地下大学生の手記)に対していろいろ反応があって、いろいろ考えるところがあったので、まとめて書いてみます。
 引用元は、元増田による追記(吹奏楽が気に入らない話の続き)、および前記事のコメントです。

はじめに

 まず元記事の論旨だけ確認させてください。
 まずkori3110さんのコメントから引用いたします。

「"宗教化"って多人数をまとめる場合に必ず出てくる問題でそこだけに関して言えば、吹奏楽に限った話でもないよね」

 もちろんそれはそうなのですが、ここではルールで目指すべき勝利が定まっているスポーツなどとは違い、本来「ゴール」のないはずの音楽で絶対的な価値観が跋扈していることをとりわけ「宗教的」と呼んでいます。結果的に陥る状況は同じかもしれませんが、そこに至る構造が極めて特徴的で、文章にする価値があると思っています。

活動面に関して

 先に書くことの少ない活動面からいきましょう。
 今度はとおりすがりさんのコメントから引用いたします。

教育的思想といいますか、割けるリソースの問題です。顧問は何も音楽科教員がつとめるわけでもありませんし、仕事量が多ければたいして部の面倒も見れませんからね。それと学校としては成果があれば大学進学率と同じくより評価されますから。
ネットとかで教員をこき下ろしている人はこういうところまで配慮が及んでいるとは思えませんし。

 これは私の思慮が足りなかった箇所だと思います。正直なところ、勉学第一部活はオマケみたいな学校に通っていたし、見学に行った学校も顧問は趣味でやっている様子だったから考えもしなかった。やっぱり重圧に苦しんでる顧問もいるんでしょうかね……。

次は元増田さんの追記から引用します。

基礎をないがしろにして(そもそも顧問が間違った基礎練押し付けてくると地獄なんだけど)
そういうことばっかり気にして音楽ごっこしてる人がいっぱいいる印象なんだよね
県で金賞→地区落ちコース程度を「弱小は酷いことやるよね」と
マイノリティみたいに片付けるのはねーどうかねー。

 私が超弱小校の出身で、うちの顧問が「吹奏楽の旅」に出るような強豪の真似事にご執心だったものでああいう文章になりました。強豪校も宗教なんだろうなーとは思っているのですが、あまり見学したことが無いですし、強い学校はある程度はマトモなメソッドを持っているのではと予想していたので。「そこそこ」くらいだと、そういうところもあるんでしょうか……。とりあえず見てきた範囲では、弱小校が猿真似で強豪校みたいなことをやって(しかもコピーの方法が部活の体制に合ってなかったり、すごく皮相的だったりする)強豪校をも凌駕するとんでもない大宗教が形成されているパターンは多かった。もちろんこれにしたって全てを見たわけではないですが。
 ブコメでも言われているように、「ちゃんと」やっている学校はコンクールでの「強さ」に関わらずたくさんあると思ってます。
 あとリードとマッピそろえるのはありましたねえ。私はフルートだったから忘れてた。個人的にはそろそろ「音質を揃えるには唇の厚さと歯列もそろえなければ……あっ、反響して音質に影響が出るから髪形と眼鏡もそろえよう……クックック」みたいな展開があるのではと予想している。

編曲について

 これが一番反響があったところです。反省点も含めつつ、いろいろ書いてみます。
 まず、本文に書いているように、編曲自体を否定するつもりは一切ありません。吹奏楽部には、管弦楽部を設けるだけの予算が無いから吹奏楽という側面もあるわけで、そうである以上、オーケストラ曲やポップス曲を編曲して演奏したいとなるのは当然の帰結だからです。ただ、オーケストラ曲を編曲・演奏するにあたっては、最善を尽くすべきだと思っています。で、最善とはなんぞや、という話に移るわけですが、まずはkori3110さんのコメントから引用します。

これに関してはいわゆる「譜面に忠実」云々ってのは意外と最近のお話で、
例えばブルックナー交響曲を「善意から」改竄しまくったマーラーであるとか、
20世紀後半においても編曲の技術を持つ指揮者が楽譜の改竄を解釈の延長として行う例は案外ありました。

 これは全くの事実で、反論の余地が無い。原曲に忠実なのがいいというのは決して絶対的な価値観ではありませんし、この後で氏が述べられているように、編成や技術の都合によっては楽譜に無いものを足し引きした方が「作曲者の意図」に近いという可能性もあります。
 突き詰めていくと、結局のところ編曲を評価する基準は個人の感性や好みということになる。

「本質」について

 だが私としてはそこに反論したい。まず第一に編曲を演奏することで、原曲も演奏したと考える人がいるはずだから。もう一つとしては、現状として吹奏楽の編曲は、なんでも似たような「吹奏楽サウンド」でしかなくなってしまっているから。
 ところでこんな話があった。とおりすがりさんのコメントから。

まず、セレクションが原曲を忠実に再現することを企図したものでないことはタイトルからも明らかでしょう。

 ここで言い争っても解決はしないと思うのですが、セレクションが原曲の再現でないのは当然としても、セレクションを原曲の限りなく近似値であると考えている人は多数いると私は考えています。私が念頭に置いているのはニコニコ動画なんかのコメントです。吹奏楽の編曲が有名なものの原曲とか見てみると結構いる。だからこそ原曲の「エッセンス」を含むべきだと私は考える。
 ここで「エッセンス」という中途半端な語を使ってしまったのはマズかったです。こんなコメントをとおりすがりさんからいただいた。

エッセンスというのは記事中の本質的な部分として解釈しますが、本質的であるかどうかというのはそこまで重要でしょうか?今までそういう本質的だと主張する説明で納得できたものはただのひとつもありません。

 エッセンスの指しているのはコメントの方で述べた下の記述の話です。分かりにくくてごめんなさい。この辺は後で詳述しますが、それは原曲に忠実ということでは必ずしもないです。

 「音楽に内在する意味」が存在しないというのは事実です。言いたかったのは、ジャズにせよクラシックにせよ、ある作品ができるまでに伝統的に試行錯誤されてきた形式なりノリなりがあって、それを土台として作品が構成されているということです。

 以下、「本質」という胡散臭い語が頻出するのですが、上のようなものとか「作者の意図」あたりを表す概念として見ていただければ幸いです。
 ですからして下の批判はちょっと違います。

たとえば、マイアベーアの戴冠行進曲は歌劇からの抜粋ものですが、それが同じ歌劇のエッセンスを凝縮したものでないことは明らかです。
しかしながら、それは吹奏楽に編曲され、マイナーながらもレパートリーとなっています。マーチ集のCDにはそれなりに収録されていますね。

では、果たしてこれは原曲無視でしょうか?一貫性を求めるならば当然こういうものにも矛先が向かわなくてはなりませんよね。

 私の言うエッセンスというのは原曲全体を木を見て森も見てはじめて浮かび上がってくるたった一つの真理、という性質のものではないからです。部分部分でも「エッセンス」は存在します。

ついでに「作者の意図」のはなし

 「作者の意図」なんて無い、という人が結構いる。あと「本質」とか聞いちゃうだけで蕁麻疹が出てしまう人。たしかに、「本質」という語に含まれるような、特定の真理があって、それを目指すべきだという発想は思想史的に見ても古いし、負の政治史がそれによって生み出されたみたいな見方もある。一歩間違えば宗教なわけです。時代はポストモダン
 だからといって「作者の意図」なんて無いと言い切るのは間違いだと私は考える。だって分からないにしたって、なにかしら「意図」はあるはずじゃないか。分からないから、そんなものは無いんだという発想は、あまりにもニヒリスティックで悲しい。
 作曲者はおそらく彼の時代までの音楽史音楽理論を学んでいて、それらを礎にして音楽を作ったはずだ。ある意味ではその時代の形式に縛られている部分もあったりする。あるいは時代背景とかあらゆる情報がある。そのようなところから「作者の意図」を自分なりにでも推測することはできるのではないだろうか。それでもって、「作品の意図」を編曲に反映させることもできる。あと大切なこととしては、「作品の意図」を反映させることが、必ずしも「似ている」という意味での忠実な編曲ではない可能性もあるということだ。
 そしてそういう私の言う意味での「本質」を蔑ろにしている編曲が吹奏楽には多いと私は感じる。たしかに本文で私は断言しすぎたなあとは思うのですが、教育的な意味でも、そのような編曲は不適切だ。なぜなら、クラシック音楽の紡いできた歴史や、その上にある音楽を学ぶことは、音楽教育において楽典と同じくらい重要だと思うから。


 ひとつたとえ話をさせてください。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を子どもにも読めるように簡略化するとしましょう。
 私はこの場合でも、子供が読む以上、文体や語彙、あるいはストーリーを読みやすいものに変えるでしょう。でも、特徴的な展開(蜘蛛の糸が切れる)だけを抽出して、はいできあがり! というのでは良くない。編者が考えたテーマ(たとえばエゴイズム)を、反映させる必要があるし、芥川の語彙選択を検討して、それに見合った簡単な語彙を選ぶべきだ。
 もちろん簡単で面白い方が読むきっかけになるよ、というのはあるんだけど、それを『蜘蛛の糸』と言っていいのか私には躊躇いがある。一つ注意してほしいのは、「簡単である」と「本質がある」というのは全く別の話であること。魅力的にするのも大切だが、子供が読む『蜘蛛の糸』として、原作を皮相的にコピーするだけではダメだ。
 完全に面白いパロディというのもあるけど、そうなってくるともはや別のものとして次元を変えて評価するべきでしょう。


 kori3110さんのおっしゃる通り、なにが「作者の意図」かというのははっきりしません。それでも、特にトランスクリプションとしての吹奏楽曲はそれを汲むように努力すべきだ。ちなみに本文中で上げた『フェスティバル・ヴァリエーションズ』の例はそれではないと思う。


そのほか

とおりすがりさんより二つ引用。

似たような批判は合唱でポップスからの編曲物が卒業式で歌われるようになったときにもさんざん聞きました。意味不明な罵倒も見ました。
要は質が低下していると言いたいんでしょう。そういう排外主義に地続きな思想に与するつもりはありません。

 ぶっちゃけ質が低いというのは言いたい。
 それはさておき、私は卒業式ではAKB48でも初音ミクでもなんでも歌ってくれと思ってます。というか私のと同じ論理で卒業式のポップス編曲ものは批判できないと思いますが。どういう批判でしょうか。
 私が吹奏楽の編曲が良くないと述べるのは、ここまで述べてきたように、「場」の問題があるからというのが大きいです。

>とおりすがりさんの言う「オリジナル作品に乏しいジャンルでの編曲作品」はたいていこっちでしょう。
いえ。違いますね<たいていこっちでしょう
わかりやすいのがマンドリンオーケストラでしょうか。他の同属楽器のオーケストラもだいたいそうですね。

 ごめんなさい私はポップス系のマイナージャンルかと思ってました。UKハードコアで演奏するバッハみたいな。
 マンドリンオーケストラでしたら、先ほど吹奏楽について述べたように編曲は当然の帰結ですが、編曲には最善を尽くすべきだと考えています。

おわりに

 簡潔に書くつもりがダラダラと長くなってしまいました……すみません。特に元記事では脇道に近かった「編曲」の話が長くなってしまいました。理屈を固めていったらガチガチの宗教っぽい文章になってしまったのですが、私自身は柔軟な評価が適切だと思ってます。ほんとだよ!
 ひとつ言いたかったのは、編曲作品は効果的だから良いというわけにはいかないということです。特に学校の部活においてはそうだと思う。


 ちなみに今日吹奏楽の地区大会がありまして、まあわが母校は例の如く残念な結果でした。それは割とどうでもいいのですが、観客席で他校の演奏を聴いていた時に、「うわーあのスネア初見んのオレのが上手いわー」とか言ってる男子がいて悲しかったです。なんなんでしょうねあれ。


 最後に、今回この文章を書くきっかけをくれた、元増田さんとコメントを下さった方々にお礼を申し上げます。
 ありがとうございました!

宗教化する吹奏楽部

吹奏楽がお高くとまってるのが気に入らない

 この記事を読んで、正直ちょっと悲しくなった。この人が、どういう部活生活を送ったのか、なんとなくわかる気がしたからだ。僕の吹奏楽部生活にも思い当たるところがある。
 元増田について、「そんなことはない」とか「吹奏楽ってそんなもんだ」といってる人がいるけど、元増田のようなことをいう人がいて、それに賛同者が一定数いる以上、吹奏楽という分野になにかしらの矛盾があることは否めないんじゃないでしょうか。ただ、元増田は現状と原因の認識を少し誤ってると思う。このエントリではその辺を考える。
 ちなみに、僕の高校時代の恩師が今年から吹奏楽部の顧問なんですけど、先生からのメールに「君の部活はなんだか宗教みたいです」と書いてありました。着任数ヶ月にして部の特質を見抜く先生の慧眼を讃えつつ、このエントリを吹奏楽に暗い思いを抱く人に捧げます。

ガラパゴスなジャンル

 まずは元記事へのツッコミから始めたい。まず、ジャンルとしての問題。

 それならそれでクラシックの姿勢を貫けばいいんだが
 簡略化した挙句にジャズとかポップス等、多方面からもつまみ食いした結果(中高生のハートをキャッチするためでしょう。おそらく)
 完全になんか不思議なジャンルと化している。どの観点から見ても中途半端。
 全国的に子供に率先してやらせる音楽ジャンルがこういうものってどう思う?

 吹奏楽が色々なジャンルからつまみ食いをしているというのは事実だ。
 吹奏楽部の演奏会はふつう、吹奏楽オリジナル曲、あるいはクラシック曲の編曲とポップス曲で構成されるのが普通だ。元増田の言うとおり、中高生のハートをキャッチするという狙いもあるし、地域のホールなんかで演奏するという客層の関係、あと様々なジャンルを学ぶという教育的配慮があるようだ。で、それがガラパゴスでつまみ食いの不思議なジャンルになっていると元増田はいう。
 ここでは、まずガラパゴス・ジャンルで悪いのかという話をした上で、「つまみ食い」ジャンルとしての吹奏楽の問題点を考えます。


 元増田はクラシックの姿勢を貫けてない、という。ここにはクラシックは主流であるという発想があるんだろうけど、クラシックは主流であるというだけで、思想としては十分ガラパゴスだ。
 たとえばピアノコンクールなんてものがあるんだけど、世の中の大半を占める一般人にはどの演奏者が良くてどれが悪いなんていうのは分からない。普通の人はテレビでなんとかコンクール日本人初入賞とか知って、それでああ良いんだなあということでCDを買ったりする。あるいは『レコード芸術』っていうクラシックCD専用雑誌があるんですけど、録音状態がどうとか些細なニュアンスがどうとか、そこに書てあることの大半は一般人には理解できないと思います。
 それが特に顕著なのは現代音楽で、いや別に僕は現代音楽大好きなので恨みは無いんですけど、世の中の大半を占める一般人には、どの作品が良くて、どれが悪いなんてことは全く理解できない。理解するためには膨大な西洋音楽史(場合によっては東洋音楽や民族音楽史)を習得しなければならない。
 もちろんそれを抜いて、感じた印象だけで評価することはできる。でも、コンクールの評価であるとか、音楽雑誌の短評のような「公」の場での論評では、ある程度の「形式」に従うことが、暗に要求されている。何も考えずに聴くべきアンビエントな音楽というのもあるにはあるけど、どっちにしろそれを論評するには、それがアンビエントな音楽であるという知識が必要だ。
 はっきり言って『なんとかカンタービレ』みたいに「ああ! これは普通の評価基準では全然だめだけど、素晴らしい人材だ!!」というのは難しいです。もちろん個性というのは認められるけど、それは暗黙の評価基準を満たしてからの話です。そしてその評価基準というのは普通に生活しているだけでは理解できない。僕もよく分からなかったりする。
 世の中には「権威」を必要としている人がいまして、それが枕を高くして寝るにはある程度きまりきった定規がいるのです。いちいち個性とか言われたらたまったもんじゃねえよ、という話。
 たぶんこういうのってあらゆる音楽のジャンルにあるんじゃないかな。だから、ジャンルとしてのガラパゴス化というのは問題ではあるけど、それは吹奏楽に限った話ではない。この点はしっかり確認したい。
 で、元増田も少々主流としてのクラシックの権威に縋ってる部分がある。クラシックだって一種のガラパゴスなのに、そこから吹奏楽ガラパゴスなることを指摘するのは不当だ。

編曲死ね!

 で、ガラパゴス化は許したんですけど、つまみ食いジャンルとしての吹奏楽がダメだという話はしなきゃいけない。この辺は音楽的な話で、ちょっと私見も入ります。
 吹奏楽はいろいろなジャンルの音楽を編曲によって引っ張ってきてるんですけど、それをことごとくショボくしているという問題。吹奏楽経験者なら肯いてくれるよね?
 これの大きな原因としては、作品の意図を考慮せず、印象的な旋律や和音だけを継ぎ接ぎして編曲しているというのがあると思う。 
 僕は、編曲自体は否定しない。後で述べるように、編曲によって開ける新境地というのもあると思うからだ。これは特にポップスでいえるのだが、曲の本質的な部分(宗教化を批判する以上、こういう中途半端な概念は使いたくないのですが、その曲の中核・アイデンティティくらいで考えてください)というのは、楽曲構成だったりオーケストレーションだったり全体から浮かび上がってくるものだと思う。しかし、吹奏楽では特徴的な旋律(CMで使われてるものとか)だけを馬鹿みたいに強調し、あとはテキトーなノリで行っちゃえ! みたいな編曲がよくある。これが吹奏楽のつまみ食いたるゆえんである。
この辺の音楽的な、作曲家・中橋愛生さんの以下のページがすごく詳しいので、興味のある方は参照してみてください。
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コンクールの評価方法について

 次はコンクールの話。

そこで教育的思想が大きくなりすぎるっていう話になるわけだけど
その全日本吹奏楽コンクールの審査基準っていうのが
「個性<集団」に相当偏ってる。
要は「中高生が協力し合って作った感動」を魅せると高得点取れる。

 「個性<集団」というのは何のことをさしているのかよく分からない。プロのオーケストラでも、演奏の評価が個人の技量や個性よりは全体になるのは当たり前だし、「中高生が協力し合って作った感動」というのは僕自身なんなのかよく分からん。
 吹奏楽コンクールはミスを厳しく採点しすぎていて、演奏上の表現を軽視している、という意見はしばしば聞かれる。だが、僕は表現なんていう曖昧なもので採点するよりは、まだある程度はっきりする技術で採点した方がいいと思う。表現に点を付けるなんてそれこそ宗教だ。だいいちコンクールで受け入れられるような表現なんて、百均で叩き売られてるようなフラットで量産型のものでしかないだろう。
 あるいは聞き栄えのいい演奏、あるいは協調性があってまとまりのある演奏が好評価になる、という側面があることを言ってるのかもしれない。『フェスティバル・ヴァリエーションズ』という大変キラキラしてて見栄えが良くて技巧的な曲がある。当然コンクールでは大人気。で、その冒頭がホルンの高らかな旋律で始まるんですが、とある学校ではさらに聴きばえを良くするために、こっそりホルンの裏にアルトサックスを入れたらしい。こういう作者の書いた楽譜を都合よく改竄する行為は、クラシック業界ではご法度中のご法度で、発覚した暁には「おふくろさん騒動」並みの大バッシングは免れないと思います。
 あと本当に審査に影響してるかは知らないんですけど(僕はさすがにそこまでは見てないんじゃないかと思う)、吹奏楽部はなぜか見栄えにもこだわる。ニコニコとかでコンクール演奏見れば分かると思いますが、いわゆるトップ校は、奏者の「動き」が揃っている。文字通り「動き」ですよ。マジでフルートの角度とかまで揃ってたりするからシャレにならない。
 で、こういうのを元増田が言うように、アホな弱小校が真似すると大変なことになる。実体験でわかるぜ。なんで顧問に演奏中の動きまでコントロールされにゃいかんのだ。
 ここまで述べたのは、吹奏楽コンクールの評価方法はそこまで酷くないけど問題点があるということ。さらに評価方法に関する一種の迷信(宗教的な!)があって、上手い学校がそれをやるために弱小校がバカの二つ覚えで真似して大変なことになる、ということです。
 ちなみに2chに光臨した吹奏楽コンクール審査員の発言がまとめられてますので、嘘か本当かはさておき読んでみるとおもしろいと思います。
吹奏楽コンクールで審査員とかやってるけど質問ある?[ アレスケープ2chアーカイブ ]

吹奏楽教本尊つまようじ学園

 コンクールの採点方法はそれ自体としてはそこまで問題ではないとここまで述べました。じゃあなぜ宗教化しちゃうのか。

 そこで教育的思想が大きくなりすぎるっていう話になるわけだけど
 その全日本吹奏楽コンクールの審査基準っていうのが
 「個性<集団」に相当偏ってる。
 要は「中高生が協力し合って作った感動」を魅せると高得点取れる。

 審査基準が一つしかないのは野球とかサッカーも同じだ。だが、サッカーが宗教と言われることはまず無いだろう。吹奏楽とサッカーはどう違うのだろうか。
 サッカーの場合、評価基準がルールというかゲームの本質の中に組み込まれている。点数制度がなかったら、それはもはやサッカーではない。一方で、音楽に絶対的な価値なんてものはない。前述したように、コンクールや公の評価では基準が必要だが、最終的には絶対的な価値はない。


 宗教的な吹奏楽部では吹奏楽コンクールの価値観が絶対となる。しかもそれはサッカーのように「ルール」として絶対化されるのではなく、初めから決まっていたことのように、つまり宗教でいう「神」のように絶対化されるのだ。
 ところで、「吹奏楽の旅」に出ていた顧問はしばしば「な? こっちのほうがいいだろ?」というような言い方をする。生徒としては「いや、前の方が良かっただろ・・・」と思うことがあるだろうし、本来それを表明する権利があるはず。音楽というのはそういうものだ。そのような音楽を、上から与えられた絶対的な価値観・ルールでやろうとするから、矛盾が出て当然なのだ。
 そしてその矛盾を隠すためにはなんだってする。逆らう部員はやめればいいのさ! ブラック企業もびっくりの重圧ミーティングなんて吹奏楽お家芸だ。
 僕は吹奏楽部で「客に聴かせることを考えるんだ!」というような事をしばしば言われた。よくよく考えてみると、どんな客が来るかなんて想像がつかないし、ついたところで大勢の客が一様なレスポンスをすることなんてない。これは一種の「太宰メソッド」で、ここでいう「客」
というのは吹奏楽が信奉するコンクール定規の代弁者なのだろう。吹奏楽部ではしばしばこういう論法が使われる。
 あともう一つ。吹奏楽界隈では微妙に有名な話なんですけど、「笑ってコラえて」内のコーナーの「吹奏楽の旅」でつまようじ学園こと県立柏高校が取り上げられたとき、顧問の口からこんな名言が生まれた。昔はYouTubeにあったんだけど今探したらなかったから文字で再現する。

 音楽室で合奏準備をする吹奏楽部員。そこに顧問がドカドカと登場。
 顧問「おい!!!! ちょっとこっちに集合しろ!!!!」


 廊下の一角に集められた吹奏楽部員。そこは部員が昼食をとった場所だった。
 顧問「おい。これは何だ?」
 青筋を立てる顧問の右手には、燦然と輝くつまようじが握られていた、いや、摘ままれていた。
 生徒「つ、つまようじですっ」
 顧問「なぁんで廊下につまようじが落ちてんだ!!!!
 つ ま よ う じ 一 本 で学校が壊れんだ部活が壊れんだよぉおお!!!!!!
 いいか!!!! わかったか!!!!」
 生徒たち「はいっっっっ!!!!!!!!!」

 これを見ていた中一の僕は笑いとかそういうものを超越して目を見開いて呆然としていた。つまようじ一本で学校が壊れる。その発想はなかった。
 コンビニでもらえる割り箸にくっついてくる爪楊枝を落とすなんてよくあることだし、あれだけ小さいと点検不備も指摘しにくい。例えば、つまようじ一本も落とさないような生活というのを考えてほしい。それはまさしく軍隊の生活だ。そのような状況下でなにかに注意を払うことはできようが、それについて考えることはできないだろう。なにも考えなくていいから言われたことだけやってね。この顧問はまずそういいたいのだ。
 そして一方ではつまようじ一本で崩壊してしまう、矛盾を抱えた吹奏楽部の姿を象徴しているのかもしれない。その矛盾に対して、つまようじ一本分でも疑問を持ってしまった部員は
 はっきり言ってこの事例はマジでキモい。宗教の最たる例だ。あまりに極端な例なので、「ここまではいかねえよ」という意見もあるかもしれないが、これと同じ要素を多くの吹奏楽団が持っていると私は考えている。

吹奏楽は死ぬべきか(音楽編)

 これが僕の考える吹奏楽の現状です。じゃあ吹奏楽は死ぬべきなのか。ここからはその辺を考えていく。
 まず音楽面の話もしましょう。日本に限らず、吹奏楽の伝統は大変短い。古典というべき作品なんて、マーチとあとはホルストの「第一・第二組曲」くらいしかない*1。伝統がないということには土台がないというネガティヴな面もあるが、一方で伝統に拘束されないという面もある。だから、吹奏楽には現在のクラシックとは違って、古典に縛られない活動ができるのではないだろうか。編曲による様々なジャンルの消化というのもその一部だろう。
 そして、だからこそ、吹奏楽部の活動では各ジャンルの「つまみ食い」ではなく、各ジャンルをたっぷり食べて咀嚼して演奏に取り組むべきだと思う。同じガラパゴスでも、テキトーに取り合わせたゲテモノ料理ではなく、B級グルメを目指してほしいのです。

吹奏楽は死ぬべきか(活動編)

 さっきまで述べたように、コンクールはある程度健全な活動をしていると思う。下手に感情を入れた評価よりはいいでしょ? という消極的な話ではあるんですけど。元増田は吹奏楽が悪い原因を、連盟やコンクールが一つしかないことに求めている。だけど、本当に悪いのは個々の活動を決めている顧問ではないだろうか。コンクール中心主義を作り出しているのはコンクールではなく顧問なのだ。
 私見になってしまうけど、結局のところ音楽の価値が生まれるところがどこなのかというと、個人と個人の間、つまり演奏者と個々の聞き手の間であると思う。それはマイケル・ジャクソンでもAKBでも同じだ。そこでは絶対的な価値観なんてものはなく、あるのは生きた他者のみだ。生きた他者に伝えるために、自分自身と直面して、戦って音楽を磨かなければならない。コンクールのような他人との比較ありきで音楽をやってしまうのは良くない。そのことを顧問は教えるべきだと思う。その上で、発表の場ないし力試しとしてコンクールに出る。そういう部活が僕はいいなあ。
 絶対者を措定するのは宗教の始まり。関係ないけど、吹奏楽部にいるようなタイプって学校を出て、絶対的だと思ってた価値観が通用しなくなったら苦悩しそうだ。それで別の新興宗教にはまったりとかね!

さいごに

 なんだが熱く語ったら、このエントリが別種の宗教のようになってしまったかもしれない。弱小宗教吹奏楽部の出身者としては、どうしてもコンクール中心主義への恨みが出てしまう。
 負け惜しみを言うと、部活の価値というのは、結局のところ部員の満足度によって決まるものだと思います。もちろんオナニーは良くないんですけどね。
 そんなわけで、僕は明日、吹奏楽コンクールの運搬手伝いにいきます。他校の生徒の僕を値踏みする視線にたえなきゃいけないのは憂鬱です。可愛い後輩の顔が見れるのは嬉しいですが。なにはともあれ頑張ってほしいものです。

*1:リードあたりを古典という場合もあるけど、ここでいうのはもっと古い「古典」です。

チアガールの見かたを考える

 このあいだ、母校の野球応援にブラバンとして参戦してきました。やっぱり夏はこれですね。一球に青春をかける高校球児。声を枯らして応援する同級生。 そして、何と言ってもチアガール。両手に握ったぽんぽんを煌めく夏の太陽にかざす。滲む汗にはりつく前髪。揺れるプリーツの隙間から、力の漲る健康的な脚。これだけでもご飯3杯はいける。
 しかし、「チアなんて実際に見てみると大したことないなあ」という人がよくいます。僕の同級生の話なのですけど。「遠目に見ると肝心の顔が見れないし、汗の粒なんてまして……。」そういう人は、チアガールを充分に楽しめてないなあと思います。ひいては高校野球を楽しめていない。
 そんなわけで、私が同級生に話したチアガールの魅力と見方を、文章にしてみたい。


 はじめに言っておきたいのこととして、チアを見るのに、しばしば双眼鏡を持ってくる輩がいるのですが、これは本気でよろしくない。拡大されて解像度も上がればチアガールたちのエロティックな本質が見通せるとでも思っているのだろうか。木を見て森を見ない無粋な連中がいると、後ろから睾丸を蹴りあげてやろうという気を抑えることができません。大きく見えればいいなどという発想は、大量消費を善しとしたアメリカ的資本主義経済の奴隷であって、心の機微をすくうような粋な情緒に欠いているのです。
 結論から言うと、チアガールは、まずはある程度の距離から、肉眼で、全体を見るべきだと思います。チアガールの魅力は、まず全体としての動き、そしてそこから溢れて漏れ出してくる一人の人間としての姿にあるのです。


 まず、応援という行為がチアガールのアイデンティティとして存在することを忘れてはいけません。彼女たちがプリーツを揺らし、その若さをスコアボードの先までも発散させているのは、ベースボールの試合での勝利を勝ち取るためであります。彼女たちが一糸乱れぬ動きを見せるのは、母校の勝利という無二の願いを一様に胸に抱いているからなのです。
 一糸乱れぬ動きというのは、ややもすれば没個性的ということにもなりかねません。たとえば、北朝鮮の軍事パレードがそうでしょう。あれを見たとき、私たちは完全な秩序に対する本能的な悦びを感じる一方で、それを演じる一人一人の人間の存在に対する違和感を抱きます。彼らは何のために彼らの独裁者を祝福しているのだろう? 完全な秩序は、一方で不安を引き起こすものであると言えるでしょう。
 しかし、チアガールは違います。まず秩序という言い方が相応しくないかもしれません。勝利への意思の流れが自然な形で集結し、それを練習によって鍛え上げたのが、あの一糸乱れぬ動きなのです。だからこそ、その中にいるからこそ、彼女たちは美しいのです。もちろん現実には、目立ちたいがためにチアをやる女の子もいるでしょう。そういうものを考えても、チアというのは可愛い。なぜかというと、どんな目立ちたがりのチアであれ、母校のヒットには喜び、ホームランを打たれた時には心から悲しむ。そういう姿は簡単に見ることができるから。


 今までは全体的な姿を見てきましたが、一方で一人一人に目を向けると、そこには個性がある。暑さから動きが鈍くなったり、ヒットの時には隣の子と手を合わせて喜んだりする。あるいは、額の汗を拭いている間に、少し動きが遅れる。秩序のある全体のなかで浮かび上がる個性。そこにこそチアガールの魅力があるのではないでしょうか。
 あと、今回見ていて面白いなあと思ったのは、彼女たちの「動き」との距離感の問題です。思うに、チアの動きには、疑いなく性的なニュアンスがあるわけです。たしかにアンスコなりブルマなり履いてるんですけど、逆に言えば、それを履かなきゃならないというのが性的な状況なわけです。だけれど、それをどれくらい意識するかというのは個人差があるわけです。普通に応援ということで力を発散させてる人もいるでしょうし、先述したような目立ちたがりのこであれば、それをある程度意識して動くことになるでしょう。言いにくいのですが、見ているとそのあたりの距離感の違いというのがあって、その辺が面白い。ちょっと自分でもよく分からないですが。


 最近はNHKの甲子園中継なんかでも、可愛いチアガールをズーム・インで写してます。ネットではしばしばキャプ画像が出回ってて、かわゆいかわゆいやっぱり若いっていいなあとオッサン達の喝采を受けていますが、あれはあまりよろしくないですね。今まで言ってきたように、チアガールというのは全体の中でこそ輝くものだと思います。ああいうふうにアイドル的にクリアケースに入れて扱うのでは、記号的で無意味な消費でしかないでしょう。
 チアは試合に行って肉眼で見よう。これに限る。

『泣いた赤鬼』の謎

なぜ青鬼は姿を消したか

 『泣いた赤鬼』のはなし。
 小学生で初めて読んだときから現在にいたるまで、僕はこの話に納得できない。なぜ、物語の最後で赤鬼は姿を消してしまうのか、そこがよく分からないのだ。一般的な読解、つまり青鬼が残した手紙の言い分としては、こんなところだろうか。赤鬼は青鬼と共謀して村人の信頼をかち得たが、このまま青鬼と交流を持っているようでは、その信頼関係が揺らいでしまうかもしれない。一見ごもっともな理由で、青鬼のいじらしさなんかは泣き所らしいのだが、僕はどうも腑に落ちなかった。そんな理由でわざわざ、しかも永遠に姿を消すものだろうか。

青鬼が姿を消す必要はあったのか

 まず検討しなければならないのは、ほんとうに青鬼は姿を消す必要性があったのか、ということだ。
 これは小学校の頃の僕が考えたことなのだが、村人と赤鬼は仲良くなったのだから、狂言を告白して、謝って青鬼も人間と仲良くすればいいのではないか。なんとも小学生的な発想で我ながら可愛いのだが、そこまで突飛でもないんじゃないか。


 村人は謝ったら狂言を許してくれるほどナイーヴではないはず。例えば物語の前半でだって、「心の優しい鬼が住んでいます……」という看板を掲げた赤鬼を拒絶したのだ。これだから童貞は……という謗りを受けるかもしれない。だが、よく考えてみて欲しい。村人たちは、子供を襲う青鬼をやっつけた、という理由だけで赤鬼を信用してしまうのである。色が違うとはいえ、同じ鬼である。村人としては、子供を襲っている青鬼と赤鬼の同盟関係を疑うべきだったのではないだろうか。だいいち、青鬼をやっつけたとはいっても、所詮は演技である。「心の優しい鬼」のことだし、日本刀で切りつけに行くなんていうのはおろか、流血にいたるような攻撃すらできなかったのではないだろうか。その程度で赤鬼のことを信頼してしまう村人というのは、なんとも無用心でナイーヴなのである。


 青鬼はそんなことを考えられるほど賢くなかったのではないか、という問題もある。だが、青鬼が考案した「作戦」と、それが成功をおさめたことを考えると、彼の知能レベルを低く見積もるというのは聊か無理のあることのように思われる。青鬼の考案した作戦、つまり青鬼が子供を襲って赤鬼が助ける、というのは、説話や昔話にはよくある展開であって、つまるところ誰にでも思いつけるような種類のものだ。そうではあるのだが、一方でこの作戦には、大きなリスクが伴う。
 それは、失敗のリスクである。二人の行った寸劇が只の狂言にすぎないというのがバレてしまった場合、あるいは先述したように赤鬼と青鬼の同盟関係が疑われた場合、この作戦は失敗となり、そればかりか、村人と二人の間の関係には、修復できない亀裂が残るだろう。この作戦に失敗は許されないのだ。恐らく青鬼は入念に村人を観察した上で、この作戦が成功すること、村人がナイーヴであることを見抜いていたのではないだろうか。
 以上のことから分かるように、青鬼はリスク計算のできるキレ者なのである。

じゃあなんで青鬼は姿を消したのか

 青鬼が姿を消した理由の不可解さを説明したところで、ここからは、彼が姿を消した本当の理由を考察してみたい。一つ考えられるのは、彼が赤鬼に絶望した、という可能性である。僕はついっきまで、青鬼赤鬼が狂言を演じて村人の信頼を得てから、赤鬼が青鬼の家を見に行くまでの期間をせいぜい数日だろうと思っていた。だが、さっきウィキペディアで確認したところ、その期間は短くはないようである。

そしてついに作戦は実行された。青鬼が村の子供達を襲い、それを赤鬼が懸命に助ける。作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになった。人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送る。

だが、赤鬼には一つ気になることがあった。それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことであった。今村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげであるので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにした。しかし、青鬼の家の戸は固く締まっており、戸の脇に貼り紙が貼ってあった。

泣いた赤鬼 - Wikipedia

 二人の作戦には、先ほど言及したものの他に、もう一つリスクがあったのだ。それは、演技という嘘をつくことで、村人と鬼の間にズレを生み出してしまう、というリスクだ。作戦の成功後、赤鬼としては村人と完全に分かり合えたと感じる。だが、村人としては当然、敵である青鬼を撃退した赤鬼さまだから仲良くしている、という側面がある。このズレが青鬼がいなくなるという悲劇を生み出すのだが、肝心の赤鬼はこのズレの存在に気づいていないのだ。ずっと。放置すれば青鬼を切り捨てることになるあの作戦を実行しておいて、近ごろ青鬼が遊びに来ないなーとはナイーヴというかバカの極みである。気づけよ。
 心配した赤鬼が訪れるのを待って数週間。赤鬼は村人と仲良くなったら毎日遊びほうけて自分のことなど忘れてしまったのだ。ああ、あんなバカに手を貸したのは間違いだった。もうこんなところからはいなくなってやる――青鬼がそう思ったとしても無理はない。


 もう一つ、これは僕の中でけっこう有力なんですけど、青鬼の浮浪願望という可能性。青鬼はもともと一人で放浪の旅に出たかったのではないか。だが、それには自分を唯一の友達としている赤鬼の存在が問題になる。かねてより赤鬼は村人と仲良くしたいと願っているから、自分が犠牲になって赤鬼と村人が仲良くなれば、すべてが丸く収まる。僕がこういう発想にいたったのは、たぶん、僕がみた青鬼が何となくクールな感じで、置き手紙の内容も、ただの強がりというだけでなく、そこはかとなく希望が感じられるものだったからだ。
 あるいは、自殺願望だったのかもしれない。とにかく世の中から消えてやりたい、みたいな。そうだとすると、青鬼が残した読みようによっては「恩着せがましい」置き手紙の真意も見えてくる。あれは彼の遺書であって、赤鬼を泣かせることは、彼がこの世に生きた証を残すことだったのかもしれない。
 なかなか想像が膨らむのだが、これも青鬼が消えた理由が十分でないからだ。

まとめ

 なんにせよ、この物語を「自己犠牲」とかそういうキーワードで語りたがる小学校の先生には今も昔もウンザリだ。そもそも、僕は「自己犠牲」とか嫌いだ。
 あえて普通の解釈でこの話からなにか学ぼうというならば、嘘はだめだ、ということかもしれない。というか小学生の僕はそう思った。村人と二人の関係は、二人が寸劇という嘘を使った時点でズレていたのだ。それを修復する唯一の方法というのは、可愛い小学校時代の僕が考えたように、赤鬼青鬼そろって頭を下げることだったのだ。
 そのズレの存在に気づかなかった赤鬼のバカさ加減というのもさることながら、自らが消えることでそれを清算しようとした青鬼もなかなか身勝手である。青鬼がいなくなってはじめて、赤鬼は二人の作戦によって青鬼が疎外されていたことに気づく。赤鬼は、その場で「泣いた」というだけでは済まないだろう。なぜなら、村人と彼の関係はいつまでも、消えた青鬼の存在を担保としたものだから。その事実は、赤鬼の心に重くのしかかるのではないか。青鬼もまた、村人と赤鬼の間に生じたズレの存在をを軽く見積もりすぎていたのだ。

メアリー・カサットの少女画が死ぬほど可愛い

 国立新美術館で開催中のワシントン ナショナル ギャラリー展にメアリー・カサットの作品が出品されています。といってもメアリー? カサット? だれ? という人が大半だと思いますので、僭越ながら私がカサットの描く少女の可愛さを紹介させていただこうと思います。ロリコンから主婦、熟女好きまで必見です!


 メアリー・カサットは、西洋美術史の本なんかでは、印象派画家リストの5番目くらいによく名を連ねている女性画家です。アメリカ出身の彼女は、画家を志してのちはフランスにわたり、踊り子の絵で有名なドガと知り合いました。彼の誘いによって、彼女は印象派の展覧会に参加します。ただ、彼女が印象派に参加した理由としては、サロンで作品が評価されなかったためという面もあったようで、画風は一般的に印象派と聞いて想像するようなものとは少々違うかもしれません。女性や子供を優しい視点ながら力強いタッチで描いた作品が特徴です。
 とまあこの辺はウィキペディアが詳しいので興味のある方はどうぞ。
 ここからは出品作を見ながら、その可愛さを堪能していきます。


 Child in a Straw Hat by Mary Cassatt
 まずは私の一押し作品である《麦わら帽子の少女》。
 首を傾けてこちらをそっと見る少女の表情が、そのままでキャンパスに描かれています。どこかの本では「不審の表情」と書いてあったのですが、不安のような、不機嫌のような、そして瞬きしている間に変わってしまうような、一瞬の表情だと思います。
 ルノワールのムチムチうっふん濃厚な肖像画にウンザリした方はこの絵を見るといいんじゃないでしょうか。脱臭も誇張もされてない、生きた少女画だと思います。


 Little Girl in a Blue Armchair by Mary Cassatt
 次に、彼女の代表作であり、この展覧会のポスターにも使われている《青い肘掛椅子の少女》。
 この作品の製作にあたってはドガの助言し筆を加えたのですが、パリ万国博覧会への出品を拒否され、彼女はショックを受けたそうです。
 手足の運び方やまくれるスカートなど、見れば見れるほど彼女の観察眼の巧みさが分かります。
 実物を見てみると、意外と椅子や犬が効果的なことに気づきました。前景では、落ち着きのない少女と静かに眠る犬との対比。その後ろでは、四つの椅子が所狭しと並べられ、それが窓からの日差しを遮ることで、なんとなく退屈で窮屈なリズムが生み出されているように感じます。


 Children Playing on the Beach by Mary Cassatt
 最後に、《浜辺で遊ぶ子どもたち》を紹介します。
 彼女の子どもへ向ける優しいまなざしが感じ取れる作品だと思います。画法としては比較的アカデミックなんですが、頬や腕にはぷくぷくと柔らかい肌の感触が感じられます。いかなるぷにキャラも出せなかった触感がここにはあります。


 この展覧会では上記油彩三点のほか、素描や版画も数点出品されています。
 ちなみにカサット作品以外も印象派が充実していて、マネ、モネ、ルノワールゴッホゴーギャンはじめ有名どころはだいたい揃ってます。カサットの展示されている横には、同じく印象派の女性画家、エヴァ・ゴンザレスとベルト・モリゾの作品も展示されていて、そのスタイルの違いを楽しむのも一興ではないでしょうか?
 そんなわけで、ワシントン ナショナル ギャラリー展は国立新美術館で9月5日まで開催されています。これは行くっきゃない。
 ワシントンナショナルギャラリー展

「主流」とオタク

 おっさんが、自分の青春時代には「主流」というのがあって、それに反していたオタクは存在しないがごとく扱われていた、というようなことを言っていた。逆にいうと、現在は「主流」というのが存在しないか、しても昔ほどん力は持っていない。で、オタクもそこまで手ひどく扱われない、ということなのだろう。たしかに、多様化だとか言われて久しく、昭和時代に最大の娯楽の座を恣にしていた「主流」の象徴たるテレビも視聴率を落としている。で、若い人はますますインターネットで「主流」から外れた、細分化されて多様化した趣味に嵌っていくというお話。それはそうなんだけど、やっぱり「主流」というものは存在して、それとの関係においてオタクの扱いは以前と変わっていないと僕は感じる。


 大学生を見てるといろんなのがいて、やべえぱねえとか言って脳味噌入ってるのか怪しい頭を雑草のような髪で装飾してるのとか(恨み節)、中庭で大騒ぎしてるのとか、そもそも大学に来ない人とか、かとおもえばチェックにぼっちで構内を高速移動してる人とか、さらにオタなのにイケメンで彼女がいたりする(僕が苦手とする)人とか色んなのがいる。主流なんてものは無いようにも思える。たしかに外見からのみ判断するとそうなのだが、彼らの中には彼らと話してみると、どんな人でも、ある程度「社会で評価されるような価値観」というか「社会の方向」は意識してるんだなと思う。「社会の方向」というのは、言いにくいのだが、たとえば、学生時代は恋愛をするべきだ、身だしなみには気を使う、ぼっちはよろしくない、というようなところ。この中に、オタクはキモいというのも含まれている。
 恋愛といえば、たとえばはてブでも、定期的に「一日で5人落としたプロが教えるナンパ術20選」とか「意中の女の子が落ち込んでいるときの模範的励まし方」みたいな記事が出ている。僕はこういうのを見かけると、とりあえずクリックして見てしまう。見てしまって、面倒くさいなあと思って、あーでも彼女欲しいんだったら看過できないよなあと一応たんぶらーに放り込んでおいて、二度と読まない。で、男友達との雑談では、「彼女を作るためにスキルなんてアホらしい。なんでそこまでして彼女作らなあかんのか」とか言う。なら初めから見るなという話なのだけど、とりあえず見てしまう。完全に無視すると、なんとなく負けたような感じがするのだ。敵だけでも知っておかねば、あわよくばそっちに迎合してやろう、と思って今日も僕は恋愛記事を開くのであった。
 どうせ実行しないのにあの手の記事を開いてしまう、という人は意外と多いんじゃないでしょうか。思えば、ライフハック系記事にはしばしば、今後いつ読まれるともわからない「あとでよむ」タグが大量につけられている。あれって「社会の方向」を意識しておこう、っていう記録のような気がする。だいたい「朝は5時に起きるとハッピー」とか実行するわけがねえだろ。
 うちのクラスには風来坊みたいな、というと格好いいけど、まあ数えるほどしか講義に来てない男子がいる。既に一留してるという噂もあるのだが、そもそも話す機会が無いので真相は不明だ。たまに十分くらい遅刻してきて、講義が終わった次の瞬間には風のように去る。そんなやつなのだが、いつも髪の毛にすげえ下手なワックスがかかっている。お前が言うななんだけど、あんまり決まってなくて、いささか梅雨に濡れた犬というかなんというか。彼は社会から全く隔絶された人間ではなかったのだ。社会を知ったうえで、あるところはそれに従い、あるところでは外れる、という態度をとっている。
 もちろん、世間の流れから全く取り残されてる人っていうのも、いないことはないけれど、見た限りごくごく少数だ。しかも、見る限り、そういう人はとんでもなく「強い」。自分をとりまく世間がどうなってるか全く気にしないで、あるいは知っていても完全無視して生きるというのは難しい。そもそも、おっさん世代の大学にだってそういう人はいたんじゃないでしょうか。


 「主流」ができる、というのはマスコミの存在ゆえの現象ではなくて、人間の本能からの現象なのだと思う。共通の価値観が全くない社会、というのは生きづらいはずだから。良くも悪くも、社会におけるとりあえずの自分の位置というのは分かった方が楽だ。だから、将来に日本がどんなに多様化しようとも、「主流」が無くなることはないと思う。おっさんたちの青春時代において「主流」は太くて急な流れだったのだろう。それで、今でも「主流」の太さと流れの速さは大して変わってないんじゃないか。ただ、ネットという障害物によって蛇行して、それで流れの速い部分と遅い部分ができてしまった、ていう程度なんじゃないか。つまり、「主流」にたいする態度の取り方をあるていど決められるようになった、あるいは、「主流」の解釈の仕方が多様化した、ともいえるかもしれない。いずれにせよ、ネットの登場によって流れがたくさんの池になってしまった、なんてことはないのだ。
 ネット界の古参おっさん達は、自分たちが若かったころのオタク迫害が凄まじかったという話をよくしている。読んでみると、言外に現代のオタクは比較的認められていて、リアルで友達もできるし、ネットでは同趣味の人と大騒ぎできていいなあというのがあるのを感じる。もちろん、「態度の取り方」としてのオタクが認められるようになった、という言い方はできる。ロック歌手が反社会的であることによって社会的に認められているように、オタクも「反主流」という態度として認められた。で、たしかにそのおかげでオタクは増えたのだけど、それでもある意味その態度ゆえに扱いは変わっていない。オタが「主流」になることはない。どころか、「支流」になることすらないだろう。
 最後に一つ。こうやって書いてみたけど、本当におっさんの世代には激しくオタクが弾圧されていたのかしらというのが気になる。数が多いというだけでも現代のオタは恵まれているんだとは思いますが、昔にだって多少はそういう人もいるんじゃないか、と。インターネットが無くてみつけるのが大変だったんでしょうが、なんだかんだ言って理解ある人はいたんじゃないかなあ、と想像してみる。

小学生のころ、金を盗んだことがある

http://hamusoku.com/archives/5224055.htmlはてぶ
 小学校二年の時だったか、親の金を盗んだことがある。
 そのころ父親は仕事で帰りが遅かったから、姉のバレエの迎えには母が行っていた。そんなに遠くでもなかったので、母は鍵だけを手に、鞄も持たずに出かけて行った。週一回、僕は家に一人で残された。共働きの家とかでは珍しくないことなのかもしれないけど、我が家においては、母もいない、姉もいない、なんていうのはあまり無いことだった。
 たぶん、お金が欲しかったのだと思う。とにかく現世で最大の力たる金が欲しかった。僕は金を得る作戦を考え、バレるリスクを計算した結果、姉の迎えの間に盗むのがよろしいということになった。
 その日、僕は母の鞄から福沢諭吉を一人、誘拐していった。母が出ていって、もしかしたら忘れ物で戻ってくるかもしれないと十分くらいは待機、僕はカーテンに自分の姿が映らぬよう慎重に母の鞄に接近、鞄の状態を変えないように注意して奪取、後の十分は一万円を手に入れたという満足感と、いまなら後戻りができるという恐怖心に胸が高鳴った。
 母の後日談によると、このとき我が家では何らかの用事のためにまとまった現金が財布の中に必要だったらしく、僕の窃盗はすぐには気づかれなかった。案外ちょろいもんだな。と、僕は思った、のだと思う。なにはともあれ、一万円というのは小学生にしても全能を感じるにはやや少ない額だった。ゲームを一本買って、ベイブレードでも買ったらあとは大きな買い物はできないハシタ金しか残らない。その次の週、僕は二度目の盗みをはたらいた。
 盗んだ金は、ゲームソフトに使った。たしか、家族で近くのショッピングセンターに行ったとき。僕は財布の中には、正月明けでもないのに、いや、当時では正月明けですら持つことのできない一万円が入っていた。僕は一人でおもちゃ売り場に向かった。
 僕には一万円がある。ケースの中のゲームはどれでも買うことができる。そう考えた時に、なんとなく、目の前のゲームが以前ほど魅力的ではないような気がした。とはいえ、わざわざ二万円を盗んで、そのうちの一万円をここまで持ってきたのだ。もう後には引けなかった。盗みを働いたという罪悪感を、ゲーム楽しみで埋める必要があった、というのは言い過ぎかもしれない。とにかく、金は持っているだけでは腐っていく。盗んだからには、何かしらの形で使わねばならなかった。
 けっきょく、散々迷ったあげく、僕は『マリオテニスGB』を買うことにした。最後まで悩んだ対抗馬はサスケをゲーム化したようなやつだった気がする。五千円しない買い物に対して一万円を出すとき、ひょっとしたら盗んだものだと疑われるのではないか、と思って手が震えた。背中まで汗まみれになって、僕は『マリオテニスGB』を手に入れた。


 僕の悪事がばれたのは、その後数日たってからだったと思う。母は、僕が誕生日なんかの臨時収入もないのにゲームを買ったことや、財布の中身が減ってる気がすることを不審に思っていたらしい。僕の部屋を片付けているときに、あるいは確認したのかもしれないが、僕の財布の中にはありえない額の金が入っているのを母は見つけたらしい。
 そのとき、どういう風に怒られたのか、実はよく覚えていない。すごく怒られてショックだったというよりは、単に気まずくて恥ずかしいから忘れてしまったのだと思う。
はじめ、母は激烈に怒ったような気がする。そのうちに父が帰ってきて、
 翌日の朝食は気まずさで潰れそうだった。僕は黙りこくって、母も何も喋らなかった。こんな時でも、毎朝そうであるようにテレビはついていて、NHKのアナウンサーがご当地イベントを紹介していた。今思うと、母の精神安定剤だったのかもしれない。今でもそうだが、母はいつでも、見てないときでも、テレビをつけている。僕が家を出るとき、母は「寄り道しないでかえってくるのよ」と言った。
 家には帰りたくなかった、が、出かけ際の母の言葉が僕を家へと引っ張った。家に帰ると、母がいつものように母がいて、僕と相対した。このあと、どうしたんだっけ。僕は、母の言葉を、床に正座して聞いていたような気もするし、母の膝の上で聞いていたような記憶もある。ただ、我が家に正座して説教という文化は今も昔も存在しないし、小学生にもなって膝の上というのもあまりにも幼稚な気がする。とすると、意外と普通にリビングの椅子で、とかだったのかもしれない。まあどうでもいいのだが。
 母は私に言った。終始穏やかに言った。「人のものは、いや家のものも盗んではいけない」「こんなことをしていると、私は君を信用できなくなってしまう」「お父さんにも謝れるよね?」僕はとにかく居たたまれ無い気分だった。泥棒が悪だなんていうことは、幼稚園の頃から知っていた。それならなんでこんなことをしたのか、という後悔と恥ずかしさで、とにかく苦しかった。早くここからいなくなりたかった。
 その後で、僕の処分が発表された。僕の全財産の没収。半年間の小遣いの停止。クリスマスプレゼントは無し。お年玉も半減。こんなところだっただろうか。
 今思えば不思議なのは、『マリオテニスGB』が没収されなかったことである。まあどっちにしろ、僕はそれで遊ばなくなった。喉元すぎれば何とやらで、数年後にはマリオ・ルイージとのエキシビジョンに勝利することになるのだが。今もそのカートリッジは抽斗に入っている。それこそが両親の意図したことなのかもしれませんが。


 ついでにもう一つ思い出すことがある。小学校六年生の時のこと。
 隣のクラスの男子(ここではAとでもしておきます)が万引きをした、という話を聞いた。僕のクラスメイトが興奮した調子で語ったところによると、経緯は以下のようらしい。学校の坂の下コンビニで、Aを見かけた。彼はごそごそと怪しい雰囲気を漂わせながら店を出ようとした。そこに店員らしき人が近づいて行って、「君、ちょっと待って」と声をかけた。彼はまだ店員が何も言ってないにもかかわらず、「ぼく、なにも盗んでません!」と宣言した。彼が手に握りしめていたのは会計を経ていないムラオカの「梅しば」で、彼は店の奥へと引き込まれていった……。
 僕らは倫理観の欠如したゆとり世代であるからして、この話は「A君万引き話」というよりは「A君がいかにマヌケであるか話」として語られていた。だが、この話はマヌケ話としては大して面白くないので、A君が万引きしたという話題はすぐに下火になった。
 僕はA君のことを考えた。低学年のころはよく遊んだ仲だったのだが、高学年になるとスポーツ系の彼とはあまり遊ばなくなった。低学年の頃の彼は、品行方正というほどでもなかったが、べつに悪事をはたらくこともなく、せいぜい虫眼鏡で昆虫を焼殺するとかマンションで鬼ごっこするとかその程度のワルであった。そうか、かれはそういう奴だったのか……。自分の過去の罪悪も棚に上げて僕は思った。
 だが、卒業も近くなって再会した彼は昔と変わらぬ彼だった。僕はしどろもどろして、どこか、上手く話せなかった。


 昨日、冒頭に挙げた記事とブクマを読んで、僕はそんなことを思い出した。
 僕が気になるのは、多くの人が、盗みをはたらいた子供のことを、「ショック療法」的に直すべきだ、と主張していることだ。まるで、子供の中に「盗みをはたらくようになる」ブロックが何らかのミスで組み込まれてしまっていて、治療するには一発叩いてそれをはじき出さなきゃいけない。それを残しておくと、また子供は盗みを繰り返すようになり、ゆくゆくは取り返しがつかなくなるのだ、というように。
 中学の教科書に登場するエーミール君の「そうか、つまり君はそういうやつだったんだな。」という台詞*1がショッキングなのは、その言葉によって主人公が泥棒として、盗みをはたらく人間として「規定」されてしまうからだ。まあエーミール君は被害を受けた他人なのでそれくらい言ってもしょうがないわけだが、親がかける言葉が「そうか、つまり君はそういうやつだったんだな。」でいいのだろうか。
 まあ結局ほんとうのところは誰にも分からないんですけど、もうちょっと冷静になって考えられてもいいんじゃないかな。

*1:ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』より。『少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集』(Amazon)に収録されているが、レビューによるとこの台詞は「そう、そう、きみって、そういう人なの?」と訳されているらしい。