吹奏楽のはなしの続き

 前の記事(宗教化する吹奏楽部 - 地下大学生の手記)に対していろいろ反応があって、いろいろ考えるところがあったので、まとめて書いてみます。
 引用元は、元増田による追記(吹奏楽が気に入らない話の続き)、および前記事のコメントです。

はじめに

 まず元記事の論旨だけ確認させてください。
 まずkori3110さんのコメントから引用いたします。

「"宗教化"って多人数をまとめる場合に必ず出てくる問題でそこだけに関して言えば、吹奏楽に限った話でもないよね」

 もちろんそれはそうなのですが、ここではルールで目指すべき勝利が定まっているスポーツなどとは違い、本来「ゴール」のないはずの音楽で絶対的な価値観が跋扈していることをとりわけ「宗教的」と呼んでいます。結果的に陥る状況は同じかもしれませんが、そこに至る構造が極めて特徴的で、文章にする価値があると思っています。

活動面に関して

 先に書くことの少ない活動面からいきましょう。
 今度はとおりすがりさんのコメントから引用いたします。

教育的思想といいますか、割けるリソースの問題です。顧問は何も音楽科教員がつとめるわけでもありませんし、仕事量が多ければたいして部の面倒も見れませんからね。それと学校としては成果があれば大学進学率と同じくより評価されますから。
ネットとかで教員をこき下ろしている人はこういうところまで配慮が及んでいるとは思えませんし。

 これは私の思慮が足りなかった箇所だと思います。正直なところ、勉学第一部活はオマケみたいな学校に通っていたし、見学に行った学校も顧問は趣味でやっている様子だったから考えもしなかった。やっぱり重圧に苦しんでる顧問もいるんでしょうかね……。

次は元増田さんの追記から引用します。

基礎をないがしろにして(そもそも顧問が間違った基礎練押し付けてくると地獄なんだけど)
そういうことばっかり気にして音楽ごっこしてる人がいっぱいいる印象なんだよね
県で金賞→地区落ちコース程度を「弱小は酷いことやるよね」と
マイノリティみたいに片付けるのはねーどうかねー。

 私が超弱小校の出身で、うちの顧問が「吹奏楽の旅」に出るような強豪の真似事にご執心だったものでああいう文章になりました。強豪校も宗教なんだろうなーとは思っているのですが、あまり見学したことが無いですし、強い学校はある程度はマトモなメソッドを持っているのではと予想していたので。「そこそこ」くらいだと、そういうところもあるんでしょうか……。とりあえず見てきた範囲では、弱小校が猿真似で強豪校みたいなことをやって(しかもコピーの方法が部活の体制に合ってなかったり、すごく皮相的だったりする)強豪校をも凌駕するとんでもない大宗教が形成されているパターンは多かった。もちろんこれにしたって全てを見たわけではないですが。
 ブコメでも言われているように、「ちゃんと」やっている学校はコンクールでの「強さ」に関わらずたくさんあると思ってます。
 あとリードとマッピそろえるのはありましたねえ。私はフルートだったから忘れてた。個人的にはそろそろ「音質を揃えるには唇の厚さと歯列もそろえなければ……あっ、反響して音質に影響が出るから髪形と眼鏡もそろえよう……クックック」みたいな展開があるのではと予想している。

編曲について

 これが一番反響があったところです。反省点も含めつつ、いろいろ書いてみます。
 まず、本文に書いているように、編曲自体を否定するつもりは一切ありません。吹奏楽部には、管弦楽部を設けるだけの予算が無いから吹奏楽という側面もあるわけで、そうである以上、オーケストラ曲やポップス曲を編曲して演奏したいとなるのは当然の帰結だからです。ただ、オーケストラ曲を編曲・演奏するにあたっては、最善を尽くすべきだと思っています。で、最善とはなんぞや、という話に移るわけですが、まずはkori3110さんのコメントから引用します。

これに関してはいわゆる「譜面に忠実」云々ってのは意外と最近のお話で、
例えばブルックナー交響曲を「善意から」改竄しまくったマーラーであるとか、
20世紀後半においても編曲の技術を持つ指揮者が楽譜の改竄を解釈の延長として行う例は案外ありました。

 これは全くの事実で、反論の余地が無い。原曲に忠実なのがいいというのは決して絶対的な価値観ではありませんし、この後で氏が述べられているように、編成や技術の都合によっては楽譜に無いものを足し引きした方が「作曲者の意図」に近いという可能性もあります。
 突き詰めていくと、結局のところ編曲を評価する基準は個人の感性や好みということになる。

「本質」について

 だが私としてはそこに反論したい。まず第一に編曲を演奏することで、原曲も演奏したと考える人がいるはずだから。もう一つとしては、現状として吹奏楽の編曲は、なんでも似たような「吹奏楽サウンド」でしかなくなってしまっているから。
 ところでこんな話があった。とおりすがりさんのコメントから。

まず、セレクションが原曲を忠実に再現することを企図したものでないことはタイトルからも明らかでしょう。

 ここで言い争っても解決はしないと思うのですが、セレクションが原曲の再現でないのは当然としても、セレクションを原曲の限りなく近似値であると考えている人は多数いると私は考えています。私が念頭に置いているのはニコニコ動画なんかのコメントです。吹奏楽の編曲が有名なものの原曲とか見てみると結構いる。だからこそ原曲の「エッセンス」を含むべきだと私は考える。
 ここで「エッセンス」という中途半端な語を使ってしまったのはマズかったです。こんなコメントをとおりすがりさんからいただいた。

エッセンスというのは記事中の本質的な部分として解釈しますが、本質的であるかどうかというのはそこまで重要でしょうか?今までそういう本質的だと主張する説明で納得できたものはただのひとつもありません。

 エッセンスの指しているのはコメントの方で述べた下の記述の話です。分かりにくくてごめんなさい。この辺は後で詳述しますが、それは原曲に忠実ということでは必ずしもないです。

 「音楽に内在する意味」が存在しないというのは事実です。言いたかったのは、ジャズにせよクラシックにせよ、ある作品ができるまでに伝統的に試行錯誤されてきた形式なりノリなりがあって、それを土台として作品が構成されているということです。

 以下、「本質」という胡散臭い語が頻出するのですが、上のようなものとか「作者の意図」あたりを表す概念として見ていただければ幸いです。
 ですからして下の批判はちょっと違います。

たとえば、マイアベーアの戴冠行進曲は歌劇からの抜粋ものですが、それが同じ歌劇のエッセンスを凝縮したものでないことは明らかです。
しかしながら、それは吹奏楽に編曲され、マイナーながらもレパートリーとなっています。マーチ集のCDにはそれなりに収録されていますね。

では、果たしてこれは原曲無視でしょうか?一貫性を求めるならば当然こういうものにも矛先が向かわなくてはなりませんよね。

 私の言うエッセンスというのは原曲全体を木を見て森も見てはじめて浮かび上がってくるたった一つの真理、という性質のものではないからです。部分部分でも「エッセンス」は存在します。

ついでに「作者の意図」のはなし

 「作者の意図」なんて無い、という人が結構いる。あと「本質」とか聞いちゃうだけで蕁麻疹が出てしまう人。たしかに、「本質」という語に含まれるような、特定の真理があって、それを目指すべきだという発想は思想史的に見ても古いし、負の政治史がそれによって生み出されたみたいな見方もある。一歩間違えば宗教なわけです。時代はポストモダン
 だからといって「作者の意図」なんて無いと言い切るのは間違いだと私は考える。だって分からないにしたって、なにかしら「意図」はあるはずじゃないか。分からないから、そんなものは無いんだという発想は、あまりにもニヒリスティックで悲しい。
 作曲者はおそらく彼の時代までの音楽史音楽理論を学んでいて、それらを礎にして音楽を作ったはずだ。ある意味ではその時代の形式に縛られている部分もあったりする。あるいは時代背景とかあらゆる情報がある。そのようなところから「作者の意図」を自分なりにでも推測することはできるのではないだろうか。それでもって、「作品の意図」を編曲に反映させることもできる。あと大切なこととしては、「作品の意図」を反映させることが、必ずしも「似ている」という意味での忠実な編曲ではない可能性もあるということだ。
 そしてそういう私の言う意味での「本質」を蔑ろにしている編曲が吹奏楽には多いと私は感じる。たしかに本文で私は断言しすぎたなあとは思うのですが、教育的な意味でも、そのような編曲は不適切だ。なぜなら、クラシック音楽の紡いできた歴史や、その上にある音楽を学ぶことは、音楽教育において楽典と同じくらい重要だと思うから。


 ひとつたとえ話をさせてください。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を子どもにも読めるように簡略化するとしましょう。
 私はこの場合でも、子供が読む以上、文体や語彙、あるいはストーリーを読みやすいものに変えるでしょう。でも、特徴的な展開(蜘蛛の糸が切れる)だけを抽出して、はいできあがり! というのでは良くない。編者が考えたテーマ(たとえばエゴイズム)を、反映させる必要があるし、芥川の語彙選択を検討して、それに見合った簡単な語彙を選ぶべきだ。
 もちろん簡単で面白い方が読むきっかけになるよ、というのはあるんだけど、それを『蜘蛛の糸』と言っていいのか私には躊躇いがある。一つ注意してほしいのは、「簡単である」と「本質がある」というのは全く別の話であること。魅力的にするのも大切だが、子供が読む『蜘蛛の糸』として、原作を皮相的にコピーするだけではダメだ。
 完全に面白いパロディというのもあるけど、そうなってくるともはや別のものとして次元を変えて評価するべきでしょう。


 kori3110さんのおっしゃる通り、なにが「作者の意図」かというのははっきりしません。それでも、特にトランスクリプションとしての吹奏楽曲はそれを汲むように努力すべきだ。ちなみに本文中で上げた『フェスティバル・ヴァリエーションズ』の例はそれではないと思う。


そのほか

とおりすがりさんより二つ引用。

似たような批判は合唱でポップスからの編曲物が卒業式で歌われるようになったときにもさんざん聞きました。意味不明な罵倒も見ました。
要は質が低下していると言いたいんでしょう。そういう排外主義に地続きな思想に与するつもりはありません。

 ぶっちゃけ質が低いというのは言いたい。
 それはさておき、私は卒業式ではAKB48でも初音ミクでもなんでも歌ってくれと思ってます。というか私のと同じ論理で卒業式のポップス編曲ものは批判できないと思いますが。どういう批判でしょうか。
 私が吹奏楽の編曲が良くないと述べるのは、ここまで述べてきたように、「場」の問題があるからというのが大きいです。

>とおりすがりさんの言う「オリジナル作品に乏しいジャンルでの編曲作品」はたいていこっちでしょう。
いえ。違いますね<たいていこっちでしょう
わかりやすいのがマンドリンオーケストラでしょうか。他の同属楽器のオーケストラもだいたいそうですね。

 ごめんなさい私はポップス系のマイナージャンルかと思ってました。UKハードコアで演奏するバッハみたいな。
 マンドリンオーケストラでしたら、先ほど吹奏楽について述べたように編曲は当然の帰結ですが、編曲には最善を尽くすべきだと考えています。

おわりに

 簡潔に書くつもりがダラダラと長くなってしまいました……すみません。特に元記事では脇道に近かった「編曲」の話が長くなってしまいました。理屈を固めていったらガチガチの宗教っぽい文章になってしまったのですが、私自身は柔軟な評価が適切だと思ってます。ほんとだよ!
 ひとつ言いたかったのは、編曲作品は効果的だから良いというわけにはいかないということです。特に学校の部活においてはそうだと思う。


 ちなみに今日吹奏楽の地区大会がありまして、まあわが母校は例の如く残念な結果でした。それは割とどうでもいいのですが、観客席で他校の演奏を聴いていた時に、「うわーあのスネア初見んのオレのが上手いわー」とか言ってる男子がいて悲しかったです。なんなんでしょうねあれ。


 最後に、今回この文章を書くきっかけをくれた、元増田さんとコメントを下さった方々にお礼を申し上げます。
 ありがとうございました!