チアガールの見かたを考える

 このあいだ、母校の野球応援にブラバンとして参戦してきました。やっぱり夏はこれですね。一球に青春をかける高校球児。声を枯らして応援する同級生。 そして、何と言ってもチアガール。両手に握ったぽんぽんを煌めく夏の太陽にかざす。滲む汗にはりつく前髪。揺れるプリーツの隙間から、力の漲る健康的な脚。これだけでもご飯3杯はいける。
 しかし、「チアなんて実際に見てみると大したことないなあ」という人がよくいます。僕の同級生の話なのですけど。「遠目に見ると肝心の顔が見れないし、汗の粒なんてまして……。」そういう人は、チアガールを充分に楽しめてないなあと思います。ひいては高校野球を楽しめていない。
 そんなわけで、私が同級生に話したチアガールの魅力と見方を、文章にしてみたい。


 はじめに言っておきたいのこととして、チアを見るのに、しばしば双眼鏡を持ってくる輩がいるのですが、これは本気でよろしくない。拡大されて解像度も上がればチアガールたちのエロティックな本質が見通せるとでも思っているのだろうか。木を見て森を見ない無粋な連中がいると、後ろから睾丸を蹴りあげてやろうという気を抑えることができません。大きく見えればいいなどという発想は、大量消費を善しとしたアメリカ的資本主義経済の奴隷であって、心の機微をすくうような粋な情緒に欠いているのです。
 結論から言うと、チアガールは、まずはある程度の距離から、肉眼で、全体を見るべきだと思います。チアガールの魅力は、まず全体としての動き、そしてそこから溢れて漏れ出してくる一人の人間としての姿にあるのです。


 まず、応援という行為がチアガールのアイデンティティとして存在することを忘れてはいけません。彼女たちがプリーツを揺らし、その若さをスコアボードの先までも発散させているのは、ベースボールの試合での勝利を勝ち取るためであります。彼女たちが一糸乱れぬ動きを見せるのは、母校の勝利という無二の願いを一様に胸に抱いているからなのです。
 一糸乱れぬ動きというのは、ややもすれば没個性的ということにもなりかねません。たとえば、北朝鮮の軍事パレードがそうでしょう。あれを見たとき、私たちは完全な秩序に対する本能的な悦びを感じる一方で、それを演じる一人一人の人間の存在に対する違和感を抱きます。彼らは何のために彼らの独裁者を祝福しているのだろう? 完全な秩序は、一方で不安を引き起こすものであると言えるでしょう。
 しかし、チアガールは違います。まず秩序という言い方が相応しくないかもしれません。勝利への意思の流れが自然な形で集結し、それを練習によって鍛え上げたのが、あの一糸乱れぬ動きなのです。だからこそ、その中にいるからこそ、彼女たちは美しいのです。もちろん現実には、目立ちたいがためにチアをやる女の子もいるでしょう。そういうものを考えても、チアというのは可愛い。なぜかというと、どんな目立ちたがりのチアであれ、母校のヒットには喜び、ホームランを打たれた時には心から悲しむ。そういう姿は簡単に見ることができるから。


 今までは全体的な姿を見てきましたが、一方で一人一人に目を向けると、そこには個性がある。暑さから動きが鈍くなったり、ヒットの時には隣の子と手を合わせて喜んだりする。あるいは、額の汗を拭いている間に、少し動きが遅れる。秩序のある全体のなかで浮かび上がる個性。そこにこそチアガールの魅力があるのではないでしょうか。
 あと、今回見ていて面白いなあと思ったのは、彼女たちの「動き」との距離感の問題です。思うに、チアの動きには、疑いなく性的なニュアンスがあるわけです。たしかにアンスコなりブルマなり履いてるんですけど、逆に言えば、それを履かなきゃならないというのが性的な状況なわけです。だけれど、それをどれくらい意識するかというのは個人差があるわけです。普通に応援ということで力を発散させてる人もいるでしょうし、先述したような目立ちたがりのこであれば、それをある程度意識して動くことになるでしょう。言いにくいのですが、見ているとそのあたりの距離感の違いというのがあって、その辺が面白い。ちょっと自分でもよく分からないですが。


 最近はNHKの甲子園中継なんかでも、可愛いチアガールをズーム・インで写してます。ネットではしばしばキャプ画像が出回ってて、かわゆいかわゆいやっぱり若いっていいなあとオッサン達の喝采を受けていますが、あれはあまりよろしくないですね。今まで言ってきたように、チアガールというのは全体の中でこそ輝くものだと思います。ああいうふうにアイドル的にクリアケースに入れて扱うのでは、記号的で無意味な消費でしかないでしょう。
 チアは試合に行って肉眼で見よう。これに限る。